きのうの風、あしたの虹

きのうの風、あしたの虹

 作 : 南 原   葵

     

 今日お母さんに、どうしてお父さんと結婚したのか聞いてみた。
 お母さんは昔から才色兼備の代名詞のような人で、古くさい言い方をすれば求婚者が列をなしていたのに、お父さんはといえば学歴はやっとこさ高校を卒業しただけで(もっともこの点についてはお父さんだけが悪いわけじゃないと、わたしも認める。お父さん世代はまともに学校へ通えなかった人がとても多いのだ)、それも超特別に理由があって通学はせず、通信教育で...という人だ。
 性格だっていい年をした大人なのにちっとも落ち着いてなくて、すぐに「熱く」なる方だ。
 お母さんの体を気遣って煙草は吸わないからそばへ行ってもクサクないし、お酒も20才になるかどうかの頃から四ツ谷のおじいちゃんに鍛えられているから深酒して乱れるなんてことも絶対無い...のはまあいいけれど、(本当は良くないよ、未成年の飲酒なんて)、なんていうか、いつまでたっても子供っぽい!
 もうちょっと、冷静沈着って言葉と仲良く出来ないものかな。気が若いって言えば聞こえはいいけど、どうも喜怒哀楽が激しいんじゃないかな。
 あんな性格でよくもまあレーサーなんて、神経を使う仕事が出来たものだと思うよ。
 それとも外で神経使いすぎて,家では正反対になっちゃうのかな。
 大阪の十三おじさんや大作おじさん、アメリカの小介おじさん達に言わせると、うちのお父さんの性格は年の分だけ落ち着いてきたけれど、基本的には十代の頃とほとんど全然変わっていないらしい。
 冗談じゃない。
 30年かけてもほとんど全然変わっていないなら、この先30年だって『熱すぎる』男のままなんじゃないの? 
 友達のお父さん達は(いや全部の友達のお父さんと顔見知りでもないんだけど)、もうちょっとシブイよ。
 氏より育ちって言う言葉があって,特にお父さんは子ども時代にわたしなんかには想像もできない苦労をしたから、根本的にはすごくしっかりしていると、お父さんの周りの人達みんなが言うけれど、でもやっぱりよそのお父さん達とはちがうよ。
 お母さんは暴走しがちなお父さんを押さえたり、わたし達子ども達のお弁当をつくったり、もちろんコネクションのお仕事をしたりで毎日大忙しだ。
 お母さんにとってお父さんのいいところといったら、今はもうレーサーをやめて、コネクション専属のパイロットに転職したから,職場でも顔を合わせられて、もしお母さんが持病の発作を起こしても、すぐに病院へ付き添って上げられることぐらいだろうな。それは子どものわたし達から見ても安心できる、とてもいいことなんだけど...。
 もし、お母さんがお父さん以外の人と結婚していたら、今ごろどうしていたかな。
 葵じゃなくて、ちがう名字かしら。
 それともおムコさんになってもらって、今もお母さんは『南原さん』だったりして。
 もしお父さん以外の人と結婚していたらわたしも生まれていない。
 わたしのいないこの世界がどうなっているかなんて、今まで考えたことなかったな。
 わたしの友達はわたしのお母さんが生んだ、わたしじゃない子と仲良くなったりするのかな。
 お母さんはずっとお母さんなのに、結婚相手がちがうだけで、その後の人生が全部変わっちゃうのも不思議だ。
 お母さん、どうしてお父さんと結婚したの? 

「えーっ? なんなの急に?
 お母さんは案の定驚きつつ、恥ずかしそうな顔をした。
 ちょっと曇り空の土曜日の午後、おやつのりんごを剥きながら、お母さんはわたしを見ている。
「だからあ、なんでお父さんと」
「それはちゃんと聞こえました。どうしてそんなこと聞くの? ちろちゃん好きな男の子でも出来たの?
「そのちろちゃんって言うのはいいかげんやめてよ、もう赤ちゃんじゃないんだから」
 小さいときわたしが名前をきちんと言えなくて「あおいちいろ」と自己紹介していたからって、なんで中2になっても同じ扱いをされなきゃならんのだ? 
 ついでに言うと好きな男の子もまあ...いないわけじゃないんだけど、お母さんに今度のバレンタインには色々教えてもらいたいこともあるんだけど、でも今はわたしのことではなくて、お母さんのことなのよ!
 こんな時お母さんは(年の功で)わたしを見透かしてしまいそうな目で、こっちを見る。
 フランス人を祖母に持つお母さんの目は不思議な色をしている。お父さんがこの目で微笑むお母さんに一目惚れしたという話も本当かもしれない(十三おじさんたちが前にお酒の勢いでそう話していた)...。
「いいじゃないの、子どもが両親の馴れ初めを知っていたって。それに...」
「それに?
「おじさん達やコネクションの人たちの話を聞いているとね、うちのお母さんとお父さんは昔から似合いのカップルだったらしいけどね」
 (お母さん、にやついているよ...)
「でも他にもお付き合いしてみたいって思う人はいなかった? お母さんは特別な立場だったから他の人と知り合うチャンスが無くて、それでずっとお父さんしかお付き合いできる人がいなかったんじゃないの? あ、でも戦争が終わった後は若い男の人がたくさん戦死して、年頃の女の人が余っていたって聞いたことあるな。むしろお父さんの方が買手市場だったのかな。やせても枯れてもコンバトラーのリーダーだし、ネームバリューは十分か。お母さんだってあのひいおじいちゃんの孫だし、その点はお父さん以上になるよね、なんせ紅一点だ。
 お父さん、逆玉とか言われたんじゃない? 片や南原博士の孫娘、片やコンバトラーのリーダーで、それもお似合いって言われた理由? あのね、それに...」
「ちろちゃん...」
 お母さんがわたしをあきれた目で見た。
「あなた本当にそんなこと考えているの? なんですか、買手市場? まったくどこでそんな言葉を覚えるんだか...」
「お母さん、ナイフをこっちに向けないでよ」
「りんごと娘の区別位つきます。心配しないでよろしい」
「はい」
 ちょっとでも機嫌を悪くしたお母さんの前にいるときは(しかも刃物を手にしている)、従順にしていたほうが良いことは、家族全員の暗黙の了解事項だ。
「世間でどんな噂が流れていても気にせず、堂々としていなさい。どこでどんなことを聞いたのかは知らないけど、たしかにちろちゃんがさっき言ったようなことを、わざわざお母さんの耳にいれにくる人も何人かいたわね....政略結婚とか逆玉とか、婚約を発表した翌日には妊娠説まで出たし」
「赤ちゃんが出来たから慌てて結婚したってこと? でも和兄が生まれたのは結婚してから2年くらい経ってからでしょ?
「ええ、和馬が生まれるのに時間がかかったから、すぐに根拠のない噂は消えちゃったわ。まったくもう、ばかばかしいったら!」
   最後に切ったりんごの一切れをお皿において、お母さんはナイフをまな板と一緒に洗い始めた。
「お皿、リビングに運んでちょうだい」
「フォークは5本?
「もちろん」
  お母さん、和兄、結馬、千春、わたしの分だ。
「ねえ,それで?
「政略結婚なんかじゃないわよ。お母さんたち、ごく普通に結婚する気になったんだから。...でも南原博士の孫はコンバトラーのパイロット達の誰かと結婚するよう遺言した祖父と、祖父の死後、後見人でもあり、リーダーをひいきする四ツ谷博士に逆らえずに仕方なく結婚するのだなんて、でっち上げを載せる五流雑誌があれば、コネクションを出たら、行くところの無い男が温室育ちの娘を手なずけたとか言い出す人もいたし、ここまで有名になった2人は、もう普通の恋愛はできないから、この相手以外に選択の余地がなかったとか、私が妊娠したと言い張って入籍を迫っただの......、次は何が出てくるだろうとこちらも最初は怒ったり、ばかにしたりしていたけど、段々それも面倒になってね、コネクションでの定例会見の時ふだんはプライベートなことは一切言わないけど、特別に [最近発表した葵豹馬と南原ちずるの婚約についてさまざまな憶測が流れておりますが、婚約発表当日に本人達が発言した以外に、真実はございませんのでご注意ください。]...だったかな? そんな感じの文書をその場にいたマスコミ各社に配ったの」
「でもコネクションに来るマスコミって堅い科学系雑誌の記者ばかりでしょ? 婚約のことなんて聞くの?
「婚約発表のすぐ後だったからね、普段は縁の無い結婚情報誌のヒトもいたらしいわ」
 ウェディングドレスのモデルが表紙を飾っている「月刊マリエ」が、きのうの夕刊の何ページ目かに広告を出していたような。うーん、うちのお父さんがあんなきれいな雑誌に載るのは、想像しにくいな。
 と、いうことは、お母さんの言う五流雑誌の記者もその場にいただろうな。
「それで? ミョーな噂は信用するなって言ったわけでしょ、みんな納得したの?
「その場では色々質問が出たらしいけど、それには一切応えないで会見を終わらせたから、ちょっとそれはないんじゃないかって、かえって印象を悪くしちゃった」
「お母さんはその場にはいなかったのね?
「ふだんは出ているけど,その時ばかりはね」
   うん,お母さんが出たら定例会見どころじゃないよ。
「まあ,その後も色々言われたわよ。式も披露宴もマスコミはシャットアウトしたから。でも世間のほとんどは私達の結婚には無関心か、でなければ、結婚はめでたいことだと受け止めてくれていたから、こうして今日まで平穏に暮らしてこられたのよ」
「うん」
「お父さん以外にも好意を寄せてくれた人はいたけど」
「えー!誰? やっぱりいたんだ、そういう人!1人? 2人?
「ないしょ。いちばん好きな人のいちばん近くに、いちばん永くいたいと思って、それでお父さんと結婚したの。本当よ」
 あ。なんだかとても。
「それで4人もの子どもが生まれたんだから、ね、わかるでしょ、誰かに指図されたり仕方なく結婚したのだとしたら,こんなに充実した生活できないわよ」
 お母さんがとても、きれいに見える。
 じーっとお母さんを見つめていたら、今度はさっきのお返しとばかりに、ギョッとすることを言われた。
「あなた、最近お父さんのこと嫌いでしょ」

「え,何それ」
「とぼけるんじゃないの。最近お父さんに話しかけることがないでしょう。お父さんから話しかけられても、まともに返事しないし。...お父さん気にしているのよ」
 うっ、さすがにばれてる...。
「だってほら、この間までテストとかで忙しくて...」
「忙しくても1日に4〜5分の会話は出来るはずでしょうに」
「お父さんのこと嫌い?
「嫌いじゃないよ、親だもん。だけど時間がもったいなくて。なんせテストって大変だから」
 そう、テスト、テスト。本当は父親と話すのってうっとうしいし、めんどくさい(特にウチみたいなのは)だけなんだけど、そんなこと言ったらもっとめんどくさいことになりそうだから、この手で押し通そうっと。
「テストねえ。そんなにテスト勉強で忙しいって言うならもう少しいい点取ってくれても良さそうなものだけどねえ」
 それを言うなよお。
 顔はお母さん似だけど、頭は.......。
「ちろちゃんくらいの年になると女の子はみんな父親を遠ざけるっていうし、だからちゃんと成長しているわけだけど」
 訳知り顔に言うのは年の功だな。
「もう少し、お父さんにやさしくしてあげなさいね」
「ボランティア精神で?
「またそういうこと言う。親子なんだから当たり前のことでしょ?
「へーい」
「へーいじゃなくて」
「はい(ヤレヤレだ)」
「本当はちろちゃんのこと羨ましいんだからね」
「へ?
「お父さんもお母さんも、ちろちゃんの年のときにはもう、家族がいなかったから」
「ああ...そうだったね」
「嫌いになったり喧嘩したりするお父さんがや兄弟がいるのは、本当はとてもありがたいことなのよ。」
「うん、まあ...ね」
 それも時々うっとうしい存在になるんだけど。兄弟がいればいたでそれなりにイヤなこともあるんだけど、一人っ子のお母さんには(お父さんにも)そういうのはわからないよな〜。
 たとえば兄弟の誰かが学校で目立つこと(良い方じゃなく、ドジな事をした時だ。たとえば1ヶ月前に結馬が掃除の時間にクラスメートとモップがけ競争をして、勢いがついて止まらなくなって,そのまま階段を転げ落ちたときはあっという間にわたしのクラスにも噂が流れてきて、
「あの前歯の折れた1年の男の子、千尋の弟なの?
 ...あの時のわたしの心境といったら、穴が無ければドリルで掘ってでも入りたいくらいだった)をして、こっちの心の準備が出来ていないときに注目を浴びると、お弁当の味がわからなくなってしまう。
 そういう心理をどう思っているんだろう。
 いやそれも「兄弟がいるっていいわねえ」と一言で片付けてしまいそうな気がするぞ、ここんちのオヤは。
「葵」って名字がまた珍しいから目立ちやすいし、コドモはコドモで苦労しているんだよ〜。そう思うとやっぱり[南原]の方が良かったかな。
「お母さん、お父さんのどんなところを好きになったの? 他にもプロポーズしてくれる人がいたんでしょ? 一人っ子ならおムコさんに来てくれる人を探しても良かったのに」
「お父さんのどこって言われてもねえ、もう長い付き合いだから」
 ごまかすなっ。
「何がきっかけで好きになったの? お母さんにだけ特別やさしくしてくれたの?
「きっかけ...」
 お母さんが言葉に詰まるなんて、めずらしい。子供は両親が結婚した理由は「好きあったからでしょ」と見当をつけることはできるけど(憎みあって結婚する人はいないと思うから)、その前段階の、好きになった理由や、付き合うきっかけは意外に知らないんだよね。
「どうしても言わなきゃだめ?
「教えてほしい」
「困ったわねえ...好きだと自覚した日のことは今でもよく覚えているけど、いつどうして好きになったのかはよくわからないのよ。何がきっかけだったのかしらねえ」
「全然憶えてないのお?
「だって気がついたら好きになっていたんだも〜ん」
「だも〜んって、いいトシしてそんなこと言わないでよ」
「でも本当のことだもん」
 .......。
「例えとしていいのかどうか...お金だったら、いつどんな風に増えたり、なぜ減ったりしたのかよくわかるけど、人の心はそうやって計るものではないでしょう? 目に見えず触れられず、でも間違いなく、そこにある。もし神様が見たら、ものすごくいびつかもしれないけど、私には...いえ誰にとってもいちばん大切な持ち物が愛情とか友情とかいうものじゃないの? いったいその持ち物をいつから手にしていたかなんて、私にわかるわけないじゃないの。あの人...あ、お父さんに出会うまでは持ってなかった気持ちを、お父さんに出会ってから持つようになったとしか言いようがないもの。......ちろちゃんのお父さん、とても大きくて、深くて、暖かくて...いい人よ。少しづつそういうお父さんのいいところを見ていくうちに、お母さんの中でお父さんの存在が大きくなっていったの。...お父さんの方はあの頃どうだったかわからないけどね」
 お母さんはふふっと笑った。
「お母さんは理屈抜きにお父さんを好きになって結婚して、ちろちゃんたちが生まれてからはもっと好きになったの。こういうの変? これじゃ答えにならない?
 わたしはすっかり圧倒されていた。お母さんがお父さんのことをこんな風に話すのを聞いたのは初めてだったせいもあるけど、なんだか...なんだかお母さんがとても綺麗に見えたのだ。さっきもお母さんが綺麗に見えたけど、さっきの何倍も、いやいやこんな綺麗なお母さんは今まで見たことがないと思ったからだ。
 お母さんはお父さんの、わたしなんかの窺い知れない部分をちゃーんと見つけたんだ、見ていたんだ、今のわたしとたいして変わらない年齢の時に。
 じゃあ、わたしは? 
 わたしがアレを気にして、今度のバレンタインにプレゼントするかどうか、ちょっと悩んでいるこの気持ちは、この妙な不安は何なの? お母さんにならわかる? 

 うちの中学のグラウンドには時々犬や猫が紛れ込むけど(どうも道路と学校をしきるフェンスの一部に穴があいているのが原因らしい。いつまでたっても修理しないから、野良の通り道になってしまった)、猫はピューッと生徒やボールをよけてまたどこかへ行ってしまうのであまり害はないし、犬は猫に比べて無断侵入する数がずっと少ないから、体育とかの授業を邪魔をする確率が低くて、今まであまり問題視されていなかった。
 ところが3ヶ月くらい前のある日、学校中が驚く事件が起きた。
 放課後のクラブの時間、校庭の隅の茂みに飛ばされたボールを捜しに行った野球部員が突然、ぎゃあと悲鳴を上げたのだ。
 一体なんだと集まった他の部員達が目にしたのは、ハエがたかり始めた猫の死体だった。
 うー、こんなこと思い出すのも、本当は.....。
「ゲー」「先生よべよ」「誰か何とかしろよ」
 野球部員達や、つられて集まったほかの運動部員(わたしを含めて陸上とかソフトボールとか)達が言い合っているときに、どこから(それにいつの間に? )持って来たのか、帰宅部らしく、制服を着た1人の男のコが軍手をはめて小さなシャベルを手に、猫(の死体)のそばに片ひざをついた。
 驚いたのはこの後だ。
 そのコは猫が間違いなく死んでいるのを確認してから雑草しか生えていない、校庭のさらに隅のほう(猫からは5mくらい離れていたと思う)をザクザクと掘り出した。
 どれくらい堀ったのか覗きこむ気はしなかったけど、掘り返された土が山になってから、そのコは猫をそうっと持ち上げて(さすがに顔はしかめていた)、できたばかりのその穴に猫を入れ、また土をかぶせた。
 その間わたしは(実は走り幅跳びの練習を抜けてきていた)他の人達同様声も出せず、そのコの行動を見ていただけだった。振り返ったときそのコは「見世物じゃねーよ」と言った。
 それが合図になり、最初に見つけた野球部員達も、他の部員達も「うひゃ」「よくさわれるなあ」とか小声で言いながら、各々のもとの練習場所に散っていった。
 わたしだけは動けなくなってしまい、「すごいね、よくさわれたね。気持ち悪くないの?とへらへら笑いながらおバカな質問をした。あーほんと、ばか。気持ちいいわけないだろっ。
「うち猫が7匹いるから、猫のことならなんでも出来ないと駄目なんだ。もう慣れちゃったよ。今までにも死なれたことあるし、大体ヤなんだよ、あんな風に死んだ猫を見る、あいつらの目がさ...」
 うちは千春が猫アレルギーなせいで、猫を飼ったことは無いから愛猫家の気持ちはよくわからないけど。
 だけどこの時、通りすがりや学校内に紛れ込んだ元気な猫を、友達と一緒に追いかけて抱っこしようとする割に、その死体は気持ち悪そうに見てしまうわたしと比べて、このコはとても大人に見えた。
 なんだか自分がとても小さく感じられて、恥ずかしくなった。こんな風に行動できるコに比べて、わたしは一体なんなんだと。
 とても格好いいと思った。今までこんなコには会ったことがないような気がした。
「もうそろそろ練習始めようよ」と同じ陸上部のケイが声をかけてくれるまで、「じゃ」とそのコが帰った後も、ぼうっとそこに立っていた。
 そのときわたしはまだ知らなかったんだけど、後で他の子達に色々聞いてみると、そのコはわたしと同じ学年で、近所でも有名な猫屋敷の息子で、確かに猫の扱いには慣れているらしかった。
 あの出来事も、あのコ自身の事も、わたしの頭から離れないことをどう説明したらいいんだろう。
 あのコの事をもっと知りたい、顔を見ていたいというこの気持ちは、お母さんが昔お父さんに対して持っていた「それ」と同じなんだろうか。わたしのいいところだけ知ってもらいたい、兄弟たちのマヌケ話など耳に入りませんようにと祈る、この気持ちは。
 今度のバレンタインにはチョコをプレゼントしてもいいかな、なんて考えたりもする、 この気持ちは。
 今のわたしなら、今のお母さんに話せるような気がする...。

「ちろちゃんどうかした? やっぱり気に入らない、こういう話は?
 あ、いけね。ついうっかりこっちの世界に入っていた。お母さんが首をかしげている。
「もうそんな目で見ないでね。ああ恥ずかしいこと言っちゃった。みんなには内緒よ。特にお父さんには言わないでね、子どもに何言ってるんだって、お母さん叱られちゃう」
 お母さんは女の子みたいな顔をしている。
 なんだかすごくかわいいぞ。お父さんがお母さんを好きになったのも、わかるような気がする。
「うん大丈夫。言わないよ、約束する」
 えへへ。これがまんがなら、すごくほのぼのとしたシーンだろうな。
 しかし、平和は短い。嵐はすぐにやって来る。うちの歩く嵐は高一で173cmの身長、部屋の中にいると結構大きく感じられる。しかもまだ成長期だから、これから先も圧迫感は大きくなっていく一方だ。
「なにしてんの、2人で。お母さん小腹空いたけど、なんかない?
「和兄、りんごむいたよ、ほら」
 さっきテーブルに置いておいたりんごを一目見るや、和兄はゲッと言って眉間にしわを寄せた。
「なんだよ色変わってるよ、これ。うわー茶色じゃん」
 しまったと、わたしたちは顔を見合わせた。りんごをむいてみんなにリビングへ集まるよう、いつものようにティーベルを鳴らすつもりがついつい話しこんで、時間がたってりんごは表面の色が悪くなってしまったのだ。むいた後に塩水にひたしておけば良かった。
  「ごめんね和馬。ああ結馬と千春も来たわね、みんな宿題は終わった? おやつにみんなでりんごを食べようと思ってむいたんだけど、ちろちゃんとうっかり長話しちゃったものだから、ちょっと色が悪くなっちゃった。でも味は変わらないから食べてね」
 結馬と千春は和兄と同じような文句を言ったけど、一応おとなしく食べていた。
 和兄は食べながらまだうるさく言っている。
 大体このヒトは最近彼女にふられて(本人は別れたと言っている)、なにかにつけ、ちょっとしたことで機嫌が悪くなるんだよね。だからわたしや弟妹だけでなく親にまで「歩く台風」とか「話す地雷」とか言われるんだよ。あーやだやだ。
「お姉ちゃん、お母さんと何の話していたの?
「うんちょっと、学校のことをね」
 千春の質問を軽くかわして結馬を見ると、こいつは義歯にすっかり慣れ、夢中でりんごを食べている。
 りんごを片手に友達や学校のことを色々話しているきょーだいを横目に、わたしはそっとため息をつき、お父さんが今晩帰ってきたら4〜5分は話をしようかと考えていた。わたしが思っていた以上にお父さんは立派な人であるらしい。ま、わたしのお父さんだもんね、やっぱり大切な人だもん。ちょっとはお父さんの話を聞いてあげるのも子どもの務めってヤツだな。
「ねえお父さん、今日帰り遅い?
「バイク仲間達とバイクぬきで飲み会って言っていたような気がする」
 和兄が7切れ目のりんごを口に放り込みながら言った。
「じゃあ来るのはおじさん連中ばっかりか。むさ...」
「いぶし銀とかいうの?
 結馬と千春が、今日集まる人達のトシを合計したら何百才だろうねと笑い合った。
 あ? でも何を話したらいいの...かな。それが問題だ。
 そうだ、それにもう一つ。
 あっという間に空になったお皿を台所へ片付けるお母さんの耳に、口をくっつけた。
「もしかしたら今度のバレンタインに猫型のチョコを作るかもしれないの。もし、もしもだけど、本当に作ることになったら、ちょっとだけでいいから、手伝ってもらえる?
 え、ねこ? ハートじゃなくて...と不思議そうにつぶやきながらも、お母さんはわたしの耳に、
「OK」
と言ってくれた。
                                   

終わり   
 
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